私が小さい頃から食い意地がはっていたことを物語るエピソードとして、
叔母が繰り返し 人前で披露してしまう話がある。
すなわち、幼い頃の私は、教会で出されたボルシチを皿まで舐めた、
という とっても恥ずかしい話である。
それでもこの話を書くのは、これが私が出来る数少ない戦争の話だからだ。
母方の祖父母は教会で出会った。
祖父は赴任したての新米牧師で、
祖母は高知で有名なクリスチャンの家の出だった。
しかし戦時下ではクリスチャンの肩身は狭く、
祖父は牧師をやめ祖母を連れて郷里の福島に戻った。
祖父は戦争の話を一切しなかった。
夏休みに帰省するとどうしてもテレビは戦争特集になるが、
それも見たくない、思い出したくないから、と
部屋にこもってしまう程 戦争の記憶を避けていた。
祖父は戦争に行ったのかと母に問うと、
戦地には行かなかったが、どうもスパイとしてソ連潜入するべく
終戦ギリギリまでロシア語などの秘密訓練を受けていたらしい、と聞かされた。
そこでどんなことがあったのか、結局祖父は戦後も牧師に戻ることはなかった。
祖父が信仰を捨てたのかまでは分からないが、
少なくとも牧師でいることに疑問が沸いてしまったようだと母は言った。
だが一方で祖母は死ぬまで教会通いを続けていたし、
葬式もキリスト教式だった。
母達も幼い頃は日曜学校に通ったし、
私も一時期通っていたので、クリスマスには讃美歌を歌った。
ボルシチが出されたのは、この祖母が通っていた福島の教会の、
日曜礼拝後のランチでのことだった。
私はまだ3つか4つで、母が帰省した折 たまたま連れられて行ったのだった。
生まれて初めて食べるボルシチは衝撃だった。
こんなにうまいものは初めてとばかり夢中で平らげ、
つい皿までベロリンベロリンと舐めてしまったようだった。
この時の話を何度もされては笑われる私は たまったものではないが、
それでも母は、時折 私を新宿のロシア料理屋に連れて行って
ボルシチとピロシキを食べさせてくれたのだから、
やはり私はこの時よほど美味しそうに食べたのだろう。
ここの牧師さんは満州帰りで、本場仕込みのボルシチだったからね、と
後に聞かされた。
満州は中国で、ボルシチはロシア料理で、
いったい なぜ それが本場仕込みになるのか、
地理に弱い私は全くつながらなかった。
けれど、満州から引き揚げてきた人の多くが 思い出の味にボルシチをあげること、
ソ満国境の緊張とソ連兵の侵攻、といった背景を知るようになって、
ようやくあのボルシチの味を理解した。
そして、自分もロシア語を学ばざるを得ない境遇におかれ
ウズベキスタンでボルシチをすするようになった。
ジャムと言いボルシチといい、ソ連の味には不思議と縁がある。
ソ連は近かったのだ。
昨夏、帰国した私は 知床を旅して
生まれて初めて国後島を見た。

サハリンの島影も見た。
驚くほど近かった。
ロシアとの、ソ連との距離を肌で感じた。
こんな話を聞いていた。
戦争が終わって、やっと戻ってきた元兵士が、
ソ連領になってしまったサハリンに残っているはずの家族を探して
手漕ぎボートで北海道から密航したところを、
スパイ容疑でソ連兵に捕らえられ
強制労働の役で カザフスタンに送られてしまった。
彼の家族は前後して本州に帰国していて無事だったのだが
その知らせは彼には届かなかった。
その後の人生は 抑留された元日本兵とは全く違う道をたどった。
彼は日本に帰る術がなく、カザフに留まり そこで家族を持った。
それから およそ50年、ソ連が崩壊し
たまたま取材に来た新聞記者と出会って日本の肉親が見つかるまで
彼は家族の安否を知ることも 日本の土を踏むことも なかった。
戦争は終わっていたのに。
家に帰ろう 家族に会おう と しただけだったのに。
ソ連が近すぎて広すぎた。