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    今月のコラムから

    在韓高麗人の流転を書いたコラムが載っていた。


    今ウズベクでは毎日いくつもの韓国ドラマが放送され、

    その華やかな生活ぶりにとっても憧れて

    韓国に渡る高麗人が多いんだろうけれど、

    祖国同胞に冷たくされたら びっくりがっかりしちゃうだろう。


    曽野綾子の居住区発言は 差別的意味はなく

    中華街のような外国人街をそれぞれが作って住むのが良い、

    という主旨だったそうだが

    そんなコミュニティを作れないほどマイノリティな人達はどうすればいいのだろう。

    外国人ではなくて同民族なのに、同化してみたいのに、区別して住めと言われたら

    どんな気持ちがするだろう。


    高麗人に限らず

    在日や中国残留孤児や

    ウズベクにいるタタール人や

    ウクライナやルーマニアに逃げたリポヴァン(ロシア正教古儀式派)や

    時代国を問わず難民となった人達ら、

    ボーダーが引かれたときに その地域にいられなかった同民族は

    結局 自分のルーツ=故郷ではない 永遠のエトランゼになってしまう。


    朝鮮日報 2015/02/18
    【コラム】在韓高麗人たちの痛みと希望

         ―(中略)―
    月谷洞には毎月100人を超える高麗人たちがやってくる。
    韓国を代表する外国人の街となった京畿道安山市に続き、
    地方の大都市にも高麗人コミュニティーが形成されている。
    高麗人たちはここに集まって暮らしているが、―(中略)―
    不安定な状態での居住を余儀なくされている。
    身分や生活が不安定なことが最も大きな障害となっている。

    その障害として代表的なのが、韓国政府のビザ政策だ。
    中央アジア諸国の国籍を持つ高麗人たちは「訪問就業ビザ(H2)」を発給されるが、
    3年ごとに出国して再びビザを申請する必要がある。
    このように身分が不安定なため、企業も高麗人たちを雇うのを忌避し、
    結局不法滞在者となって、安い賃金で雇われているケースが大部分だ。
    泣く泣く「追放」されるケースも一度や二度ではない。
         ―(中略)―
    韓国政府は、韓国の低所得層の労働者たちが就いている仕事を
    高麗人たちに奪われかねないという問題提起をしている。
         ―(中略)―
    「私たちはどこの国の人でもない」と高麗人たちは自嘲気味に話している。
    彼らは果たしていつまで流浪を続けなければならないのだろうか。
    ドイツはソ連崩壊後、国外に住むドイツ系の人たちに永住権を付与した。
    自民族の力量を極大化しようという趣旨だった。
    これは韓国が見習うべきモデルケースではないだろうか。




    背景がより詳しくまとめられた論文はコチラ↓

    「多国家市民」 としての高麗人研究 - 熊本学園大学 申明直

    パリットアッジェールの日本人・続報 ~高麗人地区⑥

    先日記事にした

    パリットアッジェールに住んでいたという日本人 松本さん について

    その生前を知る方にお話を伺うことができた。


    松本さんは 幼いころに サハリンで両親を亡くし、

    3人兄弟が散り散りになって、

    彼自身は朝鮮人の家庭に養子に入ったのだそうだ。

    樺太の辺りは開拓に入った朝鮮系がかなり多かったので

    そういうこともあっただろう。

    そうして初めから朝鮮人一家の一員として ウズベクの地にやって来たのだそうだ。


    パリットアッジェールに来てからの彼は、高麗人として

    朝鮮音楽を身に付け、太鼓の奏者から朝鮮音楽の指導者になった。

    ロシア各地はもちろん、北朝鮮などにも巡業や交流に度々出かけたという

    高麗人音楽界の名士だったそうだ。


    後年、筋肉が衰える病気にかかり 身体は自由に動かせなかったが

    松本さんの日本語に不自由はなかったそうだ。

    しかし強制移住当時、彼は7歳。

    そこから76年もの間 高麗人コミュニティで暮らし

    ソビエト教育を受けていたのだとしたら、

    彼の日本語は すぐに忘却の彼方にあったろう と思われる年齢だ。

    その点を問うと、もしかしたら強制移住より後からやってきたのかもしれない、

    そこについてはきちんと聞いたことがないということだった。


    あるいは サハリンにしばらく留まって

    あるいは先日聞いていたように 満州に移って

    高麗人コルホーズの成功を聞いてから移住を決めたのかもしれない。

    7歳以降の松本さんの周囲の環境が しばらく日本語であった可能性は 否定できないだろう。


    いずれにせよ理由と時期は定かでないものの、

    彼は忘れるほどがない程に日本語をしっかりと身につけて

    パリットアッジェールに来たのだった。

    そうして、高麗人の中で朝鮮文化を伝える第一人者でありながらも

    初代の在ウズベク日本大使が訪ねてきたことだってあるのだと

    事あるごとに自慢していたそうである。

    彼は、日本人だったのだ。

    身も心も日本人だった。


    しかし晩年の彼は、病で外にも出られず

    いつの間にか 村の人たちは彼が日本人であったことを忘れた。

    彼のことを聞いたのは1年半ほど前だったろうか、

    その時訪ねていっていれば 彼を日本人だと忘れていない日本人がいる、と

    伝えることができたのに。

    やはり色々と、悔やまれる。


    ウズベキスタンの高麗人は、CISの中で最も多く

    2002年の統計では172,000人

    現在およそ20万人いると言われている。

    そのうちの6万人がタシケント近郊に集中している。


    松本さんのような例や、あるいは抑留されたまま帰らなかった人など

    日本人がこのコミュニティに紛れていたことは他にもあるようだ。

    自分の名前がしっかりと漢字で書ける、けれども

    それ以外 自分の日本人としての素性は何も言わない(または言えなかったのか、とも思われる)

    農民の下男のような人もヤンギユールにいたと聞いた。


    せめてそういう人たちがいたことを、あと数年だけでも忘れないために

    ブログに書いておきたいと思った。

    長かった高麗人リポートはこれにて完結です、

    長文を読んで下さった方々、ありがとうございます。お疲れ様でした。

    パリットアッジェールの日本人 ~高麗人地区⑤

    実は、パリットアッジェールには 満州から流れ着いたという日本人が一人いた。

    劇場でギタリスト太鼓か何か、楽士をしており、奥さんはバレリーナだった。

    松本某という日本名だったそうだが、

    高麗人の一員として暮らしており、別の名前で呼ばれていた。


    退役軍人の家を訪ねたのは、彼の消息を尋ねるためだったが

    そこにいた殆どが、日本人など聞いたことがないといった。

    ご近所だったというミーシャおじさんが知っていて 通称名を告げると、

    皆 あぁ彼のことか、日本人だったのかと 口々に言った。


    そしてミーシャおじさんから聞かされたのは、

    松本さんは 私達が訪ねる1ヶ月半ほど前に亡くなった、という話だった。

    83歳、長らく病気をしていたのだそうだ。

    折からの暑さに弱ってしまったのかもしれなかった。


    その後奥さんたち家族はアメリカに渡っているが、

    もうすぐ秋夕(チュソク=朝鮮のお盆)だから、ここに帰ってくるかもしれない

    とも言った。


    秋夕が 未だに行われていることに少し驚いたが、

    とにもかくにも、彼はここでは日本人ではなかったのだ。


    いくつの頃にやってきて、どういう経緯で、ウズベキスタンまで流れ着いたのか、

    日本語は覚えていたのか、自分を何人だと思って生きてきたのか、

    聞いてみたいことはたくさんあった。

    いろいろと、悔やまれる。
       
         ↑
        続報あり

    高麗人の言葉 ~高麗人地区④

    高麗人は 初めの頃こそ それぞれの集落で作った学校で朝鮮語教育を受けていたが

    やがてその使用が禁じられると、完全にソビエト式の教育を受けることとなり

    年代や家庭によっては、家の中でさえロシア語で話すようになってしまった。

    そのため、1937年の強制移住前後に生まれた いわゆる「2世」世代ですら

    朝鮮語を話せない人が多い。


    以前訪ねたヤンギバザールのレモン農家の李おじいさん(76)は

    家の中では 朝鮮語とロシア語を無意識的にミックスして(混在コードという)使っていた。

    だが彼にとっては ロシア語の方が母語であり、

    息子、孫とはロシア語でしかコミュニケーションが取れない。

    私が使う韓国語とは微妙に違う言葉を使っているため

    お互い何となく話は通じるが、

    恐らくこういうことを言っているんだろうな、という推測の下に

    かろうじて成り立っていたような会話であった。


    今回お話を聞いた パリットアッジェールのミーシャさん(70)は、元スポーツ協会会長。
    ミシャおじさん
    退役軍人の家を訪ねると、話を聞くなら彼が良く知っているから、と紹介された。

    昔のことを良く覚えていて、

    パリットアッジェールのスタジアムや幼稚園などは 国立ではなく

    村のお金をみんなで出し合って作ったのだ、

    そんなことができた裕福なコルホーズは他になかったんだ、と話してくれた。

    それを潰しちゃってねぇ、と かつて2つもあったスタジアムが 今ないことがご不満の

    現役スポーツマン。

    今もスポーツの指導に「つい行っちゃうんだよね、

    もう来なくていいって言われるんだけどさ、生甲斐だからね」と笑う。


    家の中では 韓国語あるいは朝鮮語を話してらっしゃいますか、と韓国語で問うた時には

    彼は 一瞬沈黙し、何とも言えない複雑な表情を浮かべた。


    ― あぁ、いまね、いま 韓国語だったんでしょ?

     韓国語だな、っていうのは分かるんだ。

     それは分かるんだけど、なんて言っているかはさっぱり分からないんだよね。

     私はね、韓国に行ったことがあるんだよ。

     行ったんだけどもね、その時 同朋が何を話しているのか まるで分らなくて、

     とても歯痒いというかね、恥ずかしいというかね、情けない気持ちでね。

     あぁ私は、自分の民族の言葉も話せないのかって。

     今も韓国語を聞くたび、そういう気持ちになるよ。


    私は 他にも幾人か、20代 30代 40代の高麗人を知っているが、

    その人がどのくらい朝鮮語を話せるかは

    その家庭によって全く違っていて、年代で分けられるものでもなかった。

    その中の、私がろくすっぽロシア語を話せない時期に

    もしや韓国語で意思疎通ができるのでは、と話しかけた40代の男性は

    朝鮮語は両親も含め誰も全く話せない、僕たちは朝鮮人じゃなくてソビエト人だから、

    といっていた。

    とうとう今年の春、韓国に働き口が見つかって この国を出て行った。

    私がこの国のキムチが口に合わないでいることを知って、

    辛くない塩漬けの白キムチを差し入れてくれた律義な人だった。

    言葉も分からないで、彼はいま どうしているだろうか。

    律義すぎて、孤独に苦しんではいないだろうか、

    ウズベクに帰りたがってはいまいかと心配になる。


    極東でманхянга 망향가(望郷歌)という歌が作られ

    それを、今のタシケントレイクサイドゴルフクラブの建設にも関わったという

    パリットアッジェール出身のキム・ゲポ氏(64)がロシア語に翻訳し

    高麗語とロシア語で孫娘と歌っている音源がある。

    聞いてみると、これは日本のチンドンでおなじみの

    「美しき天然」のメロディなのだった。

    日本軍が満州に伝え、それが高麗人の伝播と共にあちこちに散らばったものらしい。


    ハングルで書かれた歌詞を見ながらそれを聞くと、

    彼らの発音は 私の知る韓国の発音とは明らかに違う部分がある。

    単純に、孫娘は全く韓国語を知らず、ガイジンらしく歌っている可能性もあるのだが、

    恐らくは2世である祖父から朝鮮語の指導を得ただろう。

    これが 沿海州から今の北朝鮮あたりの発音 であるのかもしれず、

    また 高麗語の発音そのもの なのかもしれない。


    こういう、民族の母語が 生活している国の言葉に

    どのように侵食あるいは影響されているかを研究している日本人がいて、

    2002年にパリットアッジェールに研究調査に来た時のレポート(PDF)が残っている。


    それによれば、彼ら混在コードを使う高麗人(主に2世)は

    ロシア語も朝鮮語も完璧ではないのだそうだ。

    例えば、韓国人ロシア語学習者が間違えやすいロシア語の発音や文法と同じポイントを

    高麗人2世は疑問なく堂々と間違えっぱなしで話してしまうというのである。

    ロシア語はロシア語らしく、朝鮮語は朝鮮語らしく、

    瞬時にイントーネションや発音まで使い分けながらも、

    ある場面では朝鮮語の語順でロシア語を並べてみたり、

    朝鮮語にない音のロシア語が正しく発音できなかったりするのである。

    つまりそれを高麗語と呼んで差し支えないかと思う。


    母語の影響というものは、外国語を学ぶ言語学科の研究テーマにもなる程の分野だが

    高麗人にとっては母語であるはずのロシア語が、

    不完全にしか話せないはずの朝鮮語の文法や発音に影響されているというのは

    非常に興味深い現象だ。


    しかし考えてみれば当然ながら、

    沿海州にいた朝鮮系にとってロシア語は外国語であった。

    やがてロシア語を身につけた朝鮮系が その生活で話すロシア語は

    当時母語であった朝鮮語の影響を受けた。

    その影響を受けたロシア語で育った次世代には 影響を受けたロシア語が母語となる。

    高麗語とは、母語が朝鮮語からロシア語へ完全移行する前の 過渡期の言葉だったのである。


    3世以降の高麗人たちは、美しいロシア語を話すが

    それでも家の中におしゃべりなおじいちゃんおばあちゃんがいれば

    この高麗語に少なからず影響を受けているはずだし、

    レポートによれば

    高麗語と同様、ペルシャ語に影響を受けたタジク系のロシア語に

    さらなる影響を受けている可能性もあるという。

    そういうわけで、今も今なりの高麗語が 進化をつづけていると想像するのである。

    パリットアッジェールに至るまで ~高麗人地区③

    沿海州というのは、そもそも 渤海 が興った地域で

    歴史としては中国や東アジア史をイメージさせられる場所だ。

    日本の北海道のお向かいさんであり、中国満州や韓半島と地続きで

    昔からたくさんの中国系や朝鮮系が住んでいた。


    1937~38年時の沿海州の朝鮮系人口は

    25万であったことが分かっている。

    対して、移住した人数は ウズベク・カザフなどを合わせ17万8千人

    (そのうちウズベクには約7万5千人)である。


    では残りの7万2千人はどこへ行ったのか。

    その多くが日本のスパイ嫌疑で逮捕されたり、強制労働の過程で 命を落としたのだ。

    犠牲になった人の数は、全体の30%近くにのぼったのである。

    これは大虐殺だ。


    なぜこのような悲劇が起きたのか。

    強制移住も悲劇だが、スパイ容疑で逮捕・粛清された人達は より悲劇である。

    実際、沿海州の中には 日本軍に協力して報酬を得ようとする朝鮮人社会もあったそうである。

    しかしそれは、土地を持てずに小作をするだけの 日々の貧しさが背景にあった。

    多くの朝鮮系は、スターリンを信奉しソビエト人民の自覚を持っていたのである。


    だが不幸なことに、ロシア系からすると、

    平たい東アジアの顔立ちは 日本も朝鮮も中国も見分けがつかない。

    日露戦争以降、第2次世界大戦に向け 緊張の一途をたどる日露関係に

    スターリンは、「平たい顔」の人たちに 日本のスパイ嫌疑をかけ片っ端から逮捕した。

    いくら逮捕しても粛清しても、らちが明かない。

    日本から入りこみやすい沿海州に 「平たい顔族」をのさばらせておいては

    日本のスパイの温床になってしまうとして、

    「平たい顔族」全体を 有無を言わさず西側へ移動させたのである。


    パリットアッジェール出身のク・スベトラーナ氏は、

    スターリン時代に スパイ容疑で粛清された朝鮮人を探し出して

    名簿にまとめている人である。

    しかし今現在、名簿に載せられた名前は5~6000人にとどまっており

    今後この作業を息子の代まで引き継いだとしても

    7万2千人 全員の名を解明することは出来ないだろうとインタビューで述べている。


    数度に分けられた強制移住は、地区や人数など クレムリンで決定がなされる度

    わずか2週間のうちに実行され 約1ヶ月で移動し切っていた。

    彼らは充分な抵抗も準備もできないままに この地へやって来たのだった。

    彼らは、中央アジアに分散させられてからもなお、

    中東側から日本の工作が入り 彼らを利用するのではないかという疑念の下、

    クレムリンから要注意集団として監視される存在であった。

    更には、粛清を免れたとはいえ、

    慣れぬ土地での厳しい生活に、彼らは各地で次々と命を落とした。

    その数は決して小さいものではない。


    それでも何とか生き抜いてきた人たちが、

    栄光のパリットアッジェールにつながるのだが

    そんな優秀コルホーズとなった後も、

    彼らは 特別な許可証がないと タシケント市に入ることは許されなかった。


    今ウズベキスタンには約17万人の高麗人がいると言われている。

    彼らは自らをウズベク人だと思っているかというと、そうではないように見える。

    女性の多くはボディコンのような服を着て、髪を金髪に染めたりして

    ロシア人になりきっているか、若い世代は韓国人に憧れている様である。


    この夏ロシアを旅したとき、ペトロザボーツクの湖畔で

    ハンガン(漢江)という名のシャシリク屋に入った。

    高麗人が一族で切り盛りする店だった。

    私がロシア語で虹鱒のシャシリクを注文すると、女社長は 中国人か と尋ねてきた。

    聞きながら、中国人だとは思っていないようだった。

    私が日本人だと答えると、

    女社長は 私達は高麗人よ、ウズベキスタンから来ているの と言った。

    高麗人なのは一目でわかるけれど、まさかウズベク出身とは何たる偶然。

    私もウズベキスタンに住んでるのよ!と言うと 女社長も とても驚いた様子だったが、

    といってウズベキスタンに懐かしさを見せたりはしなかった。

    彼女はきっと、ロシア語を話す平たい顔族に興味を持ったに違いないのだ。

    ウズベキスタンという共通点よりも、平たい顔族であることに共鳴したのである。

    自分も平たい顔族だと伝えたかったのだ。

    ロシアで広い店を一軒持てるまでに成功した平たい顔族だと言いたかったのだ。

    女社長はもっと何か言いたげだったが、

    私の後には長い注文待ちの列ができていたため、それ以上の話は聞けなかった。

    パリットアッジェールの盛衰 ~高麗人地区②

    タシケント州内、タシケント市境からすぐのYangibozor(新市場)にある

    Политотделパリットアッジェール (政治部の意) は、

    高麗人が多く住む地区である。

    現在は Dustlik (友情)と言う地名に変わっているが

    パリットアッジェールの方が通りがいいし、

    また その名には特別な意味がある。


    まずはその歴史をひもといてみる。


    高麗人の強制移住は1937年とされているが、

    そもそもウズベキスタンにおける高麗人の歴史は1925年にまで遡る。

    ソビエトから25人の朝鮮系がやって来たのだった。

    彼らは、タシケントの近郊で 一心 という品種の米を作っていた。

    だがこの辺りは沼地で、稲はウズベキスタンの気候に合わなかった。

    1931年、彼らは 一心を含む数種を掛け合わせた強い稲の品種改良に成功、

    周辺の農場が一体となって その改良種を育て始めた。

    これがパリットアッジェールの母体であり、

    2年後の1933年、コルホーズ パリットアッジェールが誕生する。


    この時の統一品種こそが、

    今も 在ウズ日本人の多くの口に入っている кендё ケンジョー米 であり、

    はじめの25人のうちの ひとり 朴ケンジョウという人から取った名だという。

    日帝時代の 献上米 から来ている、という説も聞いていたのだが、

    見つけたサイトには、この朴ケンジョウ氏の顔写真までバッチリと載っているので

    こちらの方が信憑性が高いといえるだろう。


    そして いよいよ1937年、

    54両の軍用列車で16,307家族(およそ74,500人)がウズベクに連れて来られ、

    そのうち4,500家族が パリットアッジェール周辺に、

    その他はサマルカンド、ホレズム、カラカルパクなどに 1,000家族の単位で散らばって、

    222個あった既存のコルホーズに入植するか、

    彼らだけで新しくコルホーズを50個組織することになった。

    こうして、高麗人コルホーズが形成され、次第にその収穫量を上げていくのである。


    ウズベキスタンで社会主義労働英雄(経済文化功労者賞)の称号を得た高麗人は

    1948年を皮切りに 1957年までに およそ130人に及ぶに至った。

    これはソ連時代のウズベク人英雄の 実に25%を占める計算である。

    パリットアッジェールと肩を並べる

    優良コルホーズ パリャールナヤ ズベーズダ(北斗星)の会長キム・ペンファは

    この英雄賞を2度ももらっており、

    その死後 タシケントに彼の名を冠した通りができた程の大英雄である(現在は改名)。


    1960年ごろには、フルシチョフが視察に、ガガーリンが休暇で釣りに

    パリットアッジェールを訪れている。


    すでに優秀なコルホーズの一つとして知られていたパリットアッジェールは

    1980年代半ば、3,500人で 収入1700万ルーブル、純利600万ルーブルという

    前年比30%UPの驚異的な数字を叩き出したことで、

    ウズベキスタンの農業史に名を刻むこととなった。


    この村一番の自慢は、文化宮殿と呼ばれたこの劇場だろう。

    席数1200とも言われる大劇場で、俳優から楽師まで 村のお抱えだったようだ。
    パリトアジェール劇場
    現在は、窓という窓が割れ、柱は腐り、板張りは踏み抜かれ、

    座席では 夜な夜な若者たちが入りこんで宴会でもしているらしく

    酒瓶が転がり、すっかり荒れ果ててしまっている。

    9年前に訪れたことのある人の話では、

    当時の劇場は 写真パネルでパリットアッジェールの歴史を展示する

    資料館のような役割を担っており、手入れされていたということだ。

    今では 舞台の上に音の狂ったピアノが一台、

    なんとか在りし日の姿をとどめているばかりだが、

    ここまで荒れてしまったのは、

    劇場を安く買いたたきたい何者かが 人を雇っての仕業だという噂を聞いた。

    あの写真たちがどこへ行ってしまったのか、幾人かに訪ねてみたが誰も知らなかった。


    往時は、ソ連の名プリマや大歌手の公演もあり

    1975年には なんとソ連巡業の一環で 宝塚が来たという。

    調べてみると確かに、ベルばらブーム真っ只中の時期に

    リトアニア・ウクライナを含むソ連5都市を

    3ヶ月かけて周り72回公演を行った記録があった。

    村側は握り飯と朝鮮料理を差し入れたとか、

    ホテルで何とか お好み焼き風のものを作って食べたとか、

    幾つかのエピソードを見つけることもできた。

    ちなみのその時の生徒は、今なお現役の松本悠里、初代アントワネットの初風諄、

    後年花組のトップになる高汐巴らであった。


    この劇場の前は 噴水と大きなスタジアムが広がっていたが、

    現在は噴水は枯れ、

    スタジアムは潰して24軒の長屋が建っている。

    このスタジアムでは、かつて端午祭が盛大に開かれたこともあるという。

    写真によれば サムルノリなどの農楽や 女性たちの踊り テコンドーの演武、と

    まるで韓国の祭りの一コマを写したかのような 本格的なものだ。


    パリットアッジェールの村には 学校、音楽学校、病院、(全て無料!)の他

    スタジアムが2つ、デパート、ドライクリーニング店、美容院などまであり

    人々の暮らし向きは、今の私が見て驚くほど、かなり裕福だった。

    1980年の映像では、リビングの立派なサイドボードにテレビや最新のオーディオ機器がならぶ様や

    ピアノやバイオリンをひきこなす子供たちの姿が確認できる。


    数々の有名スポーツ選手を世に送り出したパリットアッジェールでは

    スポーツ教育も大変盛んだったそうである。

    その中心であった体育館は、今ではその役目を終え
    パリトアジェール体育館
    公民館のような役割を担っているらしいが、それもあまり機能していないようだ。

    1991年の独立後、ソビエトからの物資が届かなくなり

    あんなに豊かだった村は、だんだんと寂れていった。

    韓国からの高麗人援助が始まって 一息ついたのもつかの間、

    村政にお金が回ってきたのはほんの4年程のことで、

    それ以降は現場にお金が下りてきていないのだという。

    韓国は援助を続けてくれていると思うが、

    振り分けるウズベク側の上層部でストップしてしまうんだろう、という見解だった。


    そんな訳で、今パリットアッジェールで最も賑やかなのは、

    例のクッシ屋くらいである。

    クッシ屋には、退役軍人の家という 老人会の碁会所のようなところが隣接しており

    おじいちゃんたちが毎日チェスやナルディ(バカラ)を楽しんだり

    クッシを食べながら おしゃべりに花を咲かせている。

    パリットアッジェールの輝かしい歴史を知るこの世代がいなくなったら、

    この村はうんと寂しくなってしまうんだろう。


    次回は、高麗人という存在について掘り下げてみたい。

    高麗人のその後

    日本にいる韓国語の先生から、

    韓国での 高麗人の存在について

    興味深い話を教えてもらった。


    先生によれば、

    強制移住させられた高麗人たちは

    戦後のソ連時代には、意外にも 割と優遇されていたと言う。

    (高麗人だけの大コルホーズがいくつもあったので

    五国共和的な考えというか、連邦共和国の移住の成功例、ということだったのかなぁ)

    ところが、ソ連が崩壊して

    彼らの存在が宙ぶらりんになってしまった。


    国境線の中にいるから ウズベク国民には違いないけれど

    民俗的には корейカレイ=KOREAN であることを自覚しており

    文化的・言語的には、ソ連人であって、

    全くウズベク色のない集団だったのであるから、

    「脱ソ連」を掲げたウズには

    特段 保護優遇に値しなかったのだろう。


    そして気がつけば、

    もはやロシア人でも、そしてウズベク人でもない

    無国籍状態の人が数多く生まれてしまったのだった。

    そんな、日本の在日問題にもシンクロするような状態が十数年続き、

    生活が窮乏する高麗人が各地で増大した。

    その実情は、それまであまり知られていなかったが、

    やがて韓国国内から同朋支援の声が高まって

    数年前から、韓国政府が予算を作り

    ウズ政府に働きかけて、国籍の回復や

    韓国企業の進出、韓国への出稼ぎ受け入れ など行われるようになったのだと言う。

    もちろんこれはウズだけの話ではなく、旧ソ連国に共通することである。


    実際には、韓国に就労VISAで入ったまま 行方をくらましてしまうとか

    集団就職の口を斡旋するブローカーがのさばったりと、

    問題も多数発生して

    韓国への出稼ぎ受け入れは減少傾向にあるものの、

    日本と比べ、韓国のウズへの国際協力は 力の入れ具合が 格段に違う。


    私がここで知っている高麗人は、10人。

    そのうち9人が 韓国語を話せるか、もしくは学んでいる。

    高麗人地区
    ↑タシケントにある昔からの高麗人地区。

    塀の中は 豚 飼育農場。

    画面奥に見える食堂では犬肉が出ると言う話。

    高麗人地区2
    同じような平屋の家が続く。

    最近では、タジク人やウズベク人も住むようになり

    モスリムの高麗人も少なくない。

    町のモスクは とても素朴。
    町のモスク
    町のモスクの集会所
    葬式棺
    ↑葬式は、男たちがこれで担いで歩く。

    続・米事情

    高麗人のハラボジの話を聞いたので

    今度はいよいよアライバザールのおばぁ のところで

    ケンジョウ米を 買う番だ。


    ハルモニがいる米売り場は、アライの中でも一番奥。
    アライバザール

    さぁ、ケンジョウの良いやつをおくれでないか、ハルモニ。
    アライの米婆

    あら、ハルモニ、前は白髪だったのに、今日は紫ですね。

    日本じゃ見かけなくなったなぁ、紫のおばぁ。


    このハルモニにも韓国語で話しかけてみたところ、

    一応通じた。

    が、ロシア語の方が得意なようだった。


    とにかく、なくなったらまた来るんだよ、

    はいな~、と 手を振って

    帰って来たけれど…



    残念ながら、米が古い。

    まずかった・・・。

    多分、本来の味は悪くない。

    いかんせん、古いのだ。

    確かに、アライで米を買ってる人を見たことがないんだなぁ。

    回転が極端に悪いのだろう。

    …ん~、写真まで撮っといて申し訳ないけど、

    リピートはできない気持ち。


    とりあえず、もち米を足して、昆布をのっけて炊いて

    キムチや おしんこ 満載で食べれば 何とか頂けます。

    次回からは、ケンジョウか7/13かは置いといて

    とにかくミラバッドの回転のいい店で 買うことにしよう。

    ハルモニ、ごめんよぅ。



    家族がいれば幸せだって ~高麗人レポート

    ウズベクには、高麗人と呼ばれる人たちがいる。

    日帝時代に沿海州に住んでいた朝鮮半島出身者が、

    戦中戦後、ソ連から「旧敵国人」という偏見で

    農地開拓に強制移住させられたのだ。

    …という話はクッシの時にちょこっと書いた。

    その高麗人の暮らしを訪ねてみることにした。


    訪ねたのは、タシケント市近郊のヤンギバザール(新市場)という町。

    夜になると真っ暗のそのあたりは、昼間見ると平屋の住宅と畑が並んでいる。

    その中で果樹園を営む 李某氏(74)。
    ハラボジ

    やはり高麗系の奥さんと、孫娘と共に3人で暮らしている。


    李氏(=以下ハラボジ)は、1937年生まれ。

    ハラボジの祖父が 朝鮮半島の길주キルジュ(吉州ではないかと思われる)出身で

    後、ソ連のウラジオストックに移り 漁師をしていたところを、

    強制移住により 1939年に一家でタシケントにやってくることとなった。

    この時は50~60家族が同じ地区(現ヤンギバザール)へ連れて来られ、

    共同で開拓して米作を始めたのだという。

    このとき持ちこんだのが、例の「ケンジョウ(献上)」という品種だそうだ。


    1945年の終戦までは重機ゼロの手作業だったが、

    戦後トラクターが導入され、少し楽になったという。

    今ではレモンを中心とした果樹農家に転向している。


    1950年代までは、学校に朝鮮の言葉の授業もあったので、

    ハラボジの世代は いまでも家の中では朝鮮の言葉で話している。

    ハングルの読み書きはできるが、漢字は 李 の一文字しか知らない。

    しかし第一母語は、と問えば それはやはりロシア語で

    孫娘は一切 朝鮮の言葉を解さないため

    奥さんとは朝鮮の、孫とはロシアの言葉でやり取りしている。


    試しに私も韓国語で話してみたが、

    何となくお互い かみあわない。

    彼らの話すのは 70年以上前の 朝鮮の言葉が

    タシケントで進化したものであり、

    私が学んだのは 今の韓国語なのだから 当然といえば当然だ。

    通じる言葉もあれば、分からない表現もある。

    しかし、たとえばアリランを歌えば、それはお互い知っているし

    他にも、朝鮮の歌詞そのままに 今も結婚式や宴会で 必ず歌われるものがあると言う。


    ちなみに、ハラボジの族譜は 全州李氏 。

    あら、ハラボジの おじいさまは 吉州なんでしょう?と聞いたら、

    全州も吉州も どこだか 知らなかった。

    とにかく先祖は全州、祖父は吉州の出、の李氏なわけである。

    (吉州は 北朝鮮咸鏡北道や 韓国の仁川付近など 幾つかある)


    息子夫婦は いまロシアに出稼ぎに行っているので

    3歳の孫娘を預かって、暮らしている。

    お土産に柿の種を持っていったら、

    さすがにキムチを食べているから 3歳の子にも食べさせちゃう。

    彼女も、ヒーハー言いながら、夢中で食べていた。

    こういうピリッとしたお菓子はウズにないみたいで、

    柿の種はウズ人に大好評だ。


    ソ連時代と独立後は何か変わりましたか?との問いには

    特に何も変わらない、と答えた。

    毎日家族と田んぼや畑をするだけ。

    国が変わっても毎日は変わらないし、

    家族が一緒だったから いつでも幸せだった、と柔らかく笑った。

    ん~、じゃぁ今はちょっぴり淋しいかもね、孫だけだもんね。


    お住まいは、いわゆる中国の農村の家風で

    映画「初恋のきた道」をイメージするといいが、

    玄関入ってすぐが土間の厨房で

    隣に一段高くなったオンドル部屋が二間ついている。

    あら、これだけ?と思ったが、

    暗いので見えなかっただけで、

    離れもあるし、部屋はいくらでも余っている、ということだった。


    そのまま夕飯をご馳走になった。

    テンジャンチゲ(ハラボジは チャン とだけ呼ぶ)と

    白いごはん、水キムチ、なすのピリ辛煮、

    自家製ブドウ、干しイチジク、木いちごのプリザーブはどれも絶品!

    そして、これは買ったんだょと笑いながらメロンを出してくれた。


    このお米は、もしや「ケンジョウ」?と聞いてみたら、

    いまでは、いろんな品種と配合が進んでしまって、

    当時の純粋な「ケンジョウ」米は、もうほとんど食べられない、ということだった。

    では、いまハラボジが食べているお米は何か、というと

    「7/13」だそうだ。

    ミラバッドで売っている、あれだ。

    ハラボジのチャン
    ブタ肉入りの チャン。

    長いことお話聞かせてくれてありがとう。

    ごちそうさまでした!

    ウズベクから嫁をとる

    ウズベキスタンに行くことになった、

    といっても、大概の日本人にはなんのイメージも湧かない。

    どこらへん?  何語?
    えっ! イスラム圏?! 大丈夫??

    …的な。

    そうよね、私もその一人だったもの。

    でも、調べてみれば

    シルクロードで栄えたサマルカンドに
    サッカーも最近はわりと有名。
    地下鉄も走ってる。
    ベールかぶる人もいないしお酒も豚肉も手に入る。

    ここまで言うと、みんな結構安心してくれる。

    じゃあじゃあ、遊びに来る?

    っていうと

    それでもまだ引き気味…。 直行便だってあるんだけど~

    なら、ちょっと映画でも見てみたら どうかしらん?

    私の結婚遠征記(韓国盤)原題:私の結婚遠征記 邦題:ウェディング キャンペーン

    韓国映画で、スエが出ている。

    というと、みんな見てみようという気になるみたい。

    一昔前の日本のごとく、外国人嫁を探す嫁不足農村の若者の話。

    ロケ地はタシケントやサマルカンドがごちゃ混ぜに出てくるし

    ちょっと汚いシーンもあるけど、笑って泣けちゃう。

    TSUTAYAで見かけたことあります、ぜひ。
    プロフィール

    チモラーシカ

    Author:チモラーシカ
    ウズベキスタンの首都
    タシケントで
    働いたり 趣味に燃えたり
    壊れまくる冷蔵庫に泣いたり
    の毎日を経て、
    ウズベク暮らし4年目の夏
    日本へ帰ってきました。

    趣味: ものづくり 韓国語
    モットー: 何でも食べる

    帰国して5年
    経ちますので
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